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犬との散歩で思い出すこと(林伸一郎)

  • 2023年10月01日

夏は早起きの季節だ。犬を飼うと毎日の散歩がほぼ義務づけられるわけだが、近年の異常な暑さゆえ、特に小型犬の散歩はアスファルトが熱せられる前に行かなくてはならないらしく、朝の5時頃、出かけることになる。そもそも犬を飼いたいと言い張った者たちは早起きすることはなく、ある意味、貧乏くじを引かされている。

とはいえ、酷暑の夏でも、早朝の散歩はそれなりにすがすがしいし、私の方をチラチラ見ながら、喜び勇んで歩く犬の様子は、これもまたそれなりにかわいいし、散歩の途中、深い草の中に蝶を見つけて飛び込み、まるで小さい毬のようにはじけ飛んでいる姿は見ていて微笑ましい。傍から見ると、そのような犬に、時に幼児言葉で話しかけながら歩く私は少し変な人かもしれない。そうこうして公園へ出ると、暑さを避けて散歩する犬たちの犬だまりが出現する。柴犬のなつこやコロちゃん、ラブラドゥードルのクレオ、ジャックラッセルのコタロー、トイプードルのマサ、ポメラニアンのノエル、保護犬のドナやボンドなど、おなじみさんと挨拶をしあって、満足して帰途につくのがお決まりのコースだ。やがて夏も終わりに近づき、虫の声が聞こえ始めると、早朝散歩のメンバーも徐々に数が減っていく。

そんな散歩の最中に、17世紀のある哲学者のエピソードをよく思い出す。当時デカルトという哲学者が疑い得ない確実な知を求めて、すべてを疑っていったが、そのように疑おうとしている間も、その私は何ものかであるということに気づく。考えるためには、私は存在していなければならない。「私は考える、ゆえに私はある」という不可疑の原理への到達である。そして彼はこの「私」を起点にして、広がりを要しない「考える私」(精神)と広がりをその属性とする物体とを根本的に区別することになった。デカルトによると、人間はその二つが結合している存在であるが、動物は歯車とゼンマイだけから組み立てられている時計のように、器官の配置によって動く一種の機械のようなものである。いわゆる動物機械論である。

さて散歩の時に私が思い浮かべるのは、この動物を機械と見る見方を日常の中でも徹底した人のエピソードである。ある日二人の哲学者がある修道会の建物へ入っていくと、孕んだ牝犬がじゃれついてきた。するとデカルトの衣鉢を継ぐ哲学者は無情にもその犬を打擲した。連れの哲学者がこの犬の悲しげな泣き声を聞いて心動かされた様子でいると、殴った方の哲学者は「何ですと。これが何も感じないということをご存じないのですか」と言い放ったという。彼にとって犬は思考や感情を持たない機械に過ぎなかった。

もちろん、このような見方が生体解剖を広め、その結果、動物、ひいては人体についての知識を増やし、それが医学の発展につながり、その恩恵が現代の我々までも及んでいることは間違いない。だが、これはあまりと言えばあまりの仕打ちではなかろうか。

浮世に生きた師デカルトは、一方ですべてを疑うことから動物機械論のような見方に至りつつも、他方でこの浮世で幸福に生きることができるよう、自分の国の習慣に従い、実生活の中で最も穏健な意見に従って生きるという規則を自らに課していた。そのようなデカルトであれば、この牝犬も打擲をまぬがれたような気もする。しかし聖職者・神学者でもあった弟子の生きていた世界はそのような規則を必要とするようなものでなかったのかもしれない。浮世に生きる私には、こんな風に一心不乱に駆け寄ってくる犬を無下に扱うことはとてもできない。

うちの「ぽん」