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大学とは何か?(浜野喬士)

  • 2022年09月01日

大学とはいったいいかなる場所なのでしょうか。大学で学ぶということは、いったい何をすることなのでしょうか?大学で学ぶとは、必要な授業の科目登録をして、教科書を買い、出席カードリーダーにタッチし、授業の行われている教室に小一時間座り、テストを受け、レポートを書き、単位を取得する、ということなのでしょうか。もちろんそれも大学で学ぶということの一部です。が、それ以前に、そもそも必要なことがあります。それは大学とはどのような場所であるのか、その本質を理解することです。教室の壇上にいる教員という存在は一体何者で、それを座席で聞いている皆さんとは誰で、そして教員と皆さんの間で行われている大学の授業というものがいったい何なのか、それをよくよく考えてみる、ということです。

思えば大学の授業で皆さんが出会う大学教員とは不思議な存在です。小中高の先生のように何か教員免許状のようなものを取得して、教員稼業をしているわけではない。何かの資格を採れば、何かのペーパーテストに合格すれば、なれるというものでもない。では何が大学の教員を大学教員にしているのか。端的に言えばそれは研究です。大学の教員は、研究をすることではじめて自分が大学の先生であるということの理由を持てるのです。研究は大学の教員が空き時間にやる趣味や余芸ではなく、研究によって大学の教員は本当の意味で大学の教員になれるのです。

 では研究とは何か?蛮勇を奮って言えば、未知、を扱うことです。未知とはなにも単純に新しいものを見つけることとは限りません。未知の物質、未知の法則を見つけることだけではありません。埃をかぶった哲学書の中にも、未知は発見できます。といってもそれはある哲学者の知られざる論文を発見するとか、書簡が出てくるとかそういう話だけでもありません。未知とは、「文脈」によって日々生まれ、更新され、不意に現れるものです。

例えばアリストテレスの「栄養的霊魂」論は、一見いかにも古代的議論ですが、そこに脳死や臓器移植、植物状態という生命倫理学の「文脈」を与えれば、たちまち彼が紀元前に書いた『霊魂論』は現代のテクストとなり、「研究」の対象となります。ニコライ・ゴーゴリは、「ロシア」文学の巨匠として扱われ、われわれの大半は『狂人日記』や『鼻』といった作品名を学ぶのみ、という惨惨たる状況に置かれていたわけですが、ウクライナ・ロシア戦争が起こるやいなや、コサックを描いた彼の『隊長ブーリバ』は、南ロシアやウクライナに住む人々の内面や世界観の一部を知るための重要文献になりました。

アリストテレスもゴーゴリも、それを学べば即仕事に役立つ、というものではありません。しかしある「文脈」、たとえば臓器移植問題であったりウクライナ問題であったりが生じるやいなや、それはそれぞれの問題のまさに本質に触れる、というかたちで「役に立つ」ようになるのです。

それゆえ未知とは、これまで問われていないもの、少なくとも正しく問われてこなかったもの、問われる文脈が存在しなかったもの、と言えるでしょう。それを問うのが「研究」であり、それを生業とするのが研究者、ということになります。以上に関して私が思い浮かべているのはドイツの哲学者ヤスパースの次のような言葉です。「大学においては、人々は、一つの制度の中で学問を通じて真理を探究すると同時に伝授する職業へと結びつけられています」(『大学の理念』)。真理の探究、すなわち研究と、真理の伝授、すなわち教育は、大学においては表裏一体の関係にあります(それゆえ一部の教員は教育だけ行っていればよい、といった言葉は、大学というものがいかなる場所であるのかを根本的に理解していない、まったくの戯言なのです)。

では大学の授業とはいったい何なのでしょうか。それは大学教員と学生との共同作業です。それは教員に答えを教えてもらう場ではなく、教員とともに問いを立てる場です。またヤスパース先生に登場してもらいましょう。「大学は、学校でありますが、しかし独自の学校であります。大学にあっては、授業を受けるだけでなく、学生も研究に参加し、それによって自分の生活を規定することになる学問的な教養を獲得するべきなのです。学生は、理念に従って自立的な、自己責任的な、自らの教師に批判的についていく思索者なのです」(前掲書)。大学で学ぶということは、学生自らも研究するということなのです。それは研究論文を書くとか、研究者になるとか、そういうことには限定されません。既成の確定した答えをもらおうとするのではなく、自分も問いを立てよう、その作業に参加しよう、という心を真剣に持てば、そこに「研究」と呼ぶ態度が生まれるのです。この「研究」に参加することで、皆さんは「生徒」を抜け出し、「学生」になります。大学での学びについての根本理解を欠くならば、たとえどんなに優秀な成績を収めようとも、高校四年生、五、六、七年生ということになるでしょう。

そうはいっても、いきなり広い意味での研究をせよ、と言われても困ってしまいますよね。「自分の頭で考えろ」とはよく聞く話ですが、これは半分正解で半分間違っている。自分で考えるのは大事ですが、そのためには最初の手がかり、取りつきのホールドが必要です。そこで広い意味での「研究」を、学生よりも少し先立つ時期から行っている一群の人々、すなわち研究者としての大学教員がいるわけです。

大学で学ぶということは、教員の立てる問いを共有し、答えを出そうとする教員の悪戦苦闘の一端を目の当たりにするということです。この共同作業は内的なものなので、講義だ、演習だ、といった授業の外面的な形式にぴったり対応しているわけではありません。それゆえ二百人の講義形式の授業でも、そこに問いを共有してくれる学生が数人でもいれば共同作業は成立します。一方、参加者が十人の演習で、盛んに言葉のやり取りがなされていても、そこに問いを共有するという構えがお互いになければ共同作業は存在していない、ということになるでしょう。

大学で学ぶということは、安易な偽の答えではなくて、むしろ不快でも本物の困難を直視するような、そうした心の構えを作る場所です。私たちの世界は、不確定なもの、複雑なもの、理不尽に襲いかかってくるものに満ちています。そのため私たちは、それらを虚偽の確実さで繕ったり、単純化したり、かりそめの安心を得られるような理屈で覆い隠したりする誘惑につねに駆られます。できるだけ苦痛を取り除いて、この世界を、この人生を眺めたいのです。しかしその先に待っているのは、世界は実はこうなっている式の陰謀論か、こうすれば幸せな成功者になれるよ式の自己啓発か、この人に任せれば大丈夫だ式の衆愚政治のいずれか、あるいはそれら全部、ということになるでしょう。

このように考えると、大学で学ぶ四年間とは、大学教員という少し「変な」人たちと至近距離で接触する不思議な四年間ともいえます。それを不思議な、しかし意義ある四年間にできるかどうかは、教員と学生の双方にかかっています。

Karl Jaspers『大学の理念』の書影