テスト直前の授業で、欠席がちだった学生に「大丈夫?」と聞いたら、その学生は「だいじょばない」と答えた。どうにか合格できるよう手ほどきしてあげようと思うと同時に、形容動詞の「だいじょうぶ」を五段活用動詞として使ってしまうその表現の斬新さに感心し、学生こそわが師であるということを再認識したものだ。動詞の連用形あるいは名詞形を形容詞として使う「違くない」などと同様に、いまでこそ品詞の規範を逸脱していると見られるだろうが、やがて新たな規範として定着する可能性も否定できない。古今中外の名詩文に型破りの表現が数多く見られるのがその裏づけとなる。いまや、わたしも「いらない」、「いいです」の代わりに、「大丈夫です」とごく自然に言うようになっている。学生たちから学んだこの表現によって示唆されるように、「白髪三千丈」の中国とは異なり、客観性を保つのが日本文化の特徴のひとつと思われる。主観意思を前面に押し出すのを避ける言語表現に、独特の美学さえ感じられる。
いまさら言うまでもないが、言語は文化の一部であり、文化から切り離すと、切れたヤモリのしっぽのようなもので、動いていても、ヤモリの機能を失っている。日中国交正常化後、中国では少しずつ日本の映画やドラマが紹介されるようになった。吹き替えも字幕もなく、同時通訳がマイクを握ってのにわか上映のケースも見られた。偶然、映画館でそのような上映に出くわした。その映画に若い男女の会話のシーンがあった。
男 「ぼくが悪かった」
女 「過去のことはいいわ」
ところが、通訳は女性の言葉を「過去の方がすばらしかったわ」と訳した。無理もない。「いい」は「悪い」の反対語で、「悪くない」の意ととらえられるからである。文法規範からすれば、何ら問題はないかも知れないが、残念ながら、切れたヤモリのしっぽの類と言わざるを得ない。
なんといっても、文化現象として文化大革命終息後の中国を席巻したのが、高倉健主演の映画「君よ憤怒の河を渡れ」(中国語訳「追補」)であった。中国語吹き替え版だけでなく、日本語原語版もしばしば上映された。日本語版を見て気づいたのは、それぞれの言語に独自の表現パターンがあるということだ。たとえば、検事の杜丘(高倉健)が牧場の娘の真由美(中野良子)と電話での会話で、「いま新宿だ」と話す。もし文法どおりに中国語に直訳すれば、「いま(という時点)は新宿(という場所)である」となり、論理的に誤謬が生ずる。この一例を通して、文法の束縛から解き放してはじめて語学が身につくものと悟るにいたった。