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熱に浮かされて(廣瀬直記)

  • 2023年03月01日

いまから十年ちょっと前、2012年の1月26日から2月17日まで、中国の陝西(せんせい)、山西(さんせい)、河南(かなん)の三省を転々と旅してまわった。当時、ぼくは上海に留学していて、同じ大学に留学していた友人と旅立つ予定だったのだが、その友人が前日に熱を出してしまったため、一人夜中の寝台列車に乗って、最初の目的地、陝西省の省都西安(せいあん)に向かうことになった。

西安はかつて長安と呼ばれた由緒正しい古都であり、いわずと知れた観光資源の宝庫だ。道教研究を志していたぼくも、全真教の開祖王重陽(おうちょうよう)が呂洞賓(りょどうひん)という仙人に出遇って秘訣を授けられたという甘河鎮(かんがちん)をはじめ、あちらこちらをせっせと見てまわった。

甘河鎮。王重陽が呂洞賓に出遇った小さな町。

ところが、一週間近く経ったころ、前漢武帝の茂陵(もりょう)に行って寒風に吹きまくられたせいか、あるいは上海の友人から風邪をもらっていたのか、鼻の奥のほうでつーんと熱のにおいがしはじめた。それでも、旅先で休む選択肢を知らなかったぼくは、次の日も秦の時代の兵馬俑や唐の玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスで知られる華清池(かせいち)を、もうろうとしながらうろつきまわった。振り返ってみれば、中国で唯一露骨にお金をだまし取られたのも、このときだったように思う。

案の定、翌朝には起き上がることができなくなっていた。とはいえ、一日じゅう宿で寝込んでいるのはもどかしかったので、その日の昼すぎには、当時西安の大学に研究員として滞在していた友人のもとを訪ねた。いっしょに華山(かざん)に登る約束をしていて、たしかその打ち合わせに行ったのだと思う。ただ、どういう経緯でそうなったのか、よく覚えていないのだが、ひどく怒りを買って、一人で華山に行くはめになった。

翌朝、ぼくは華山に向かう列車にふらふらと乗り込み、八日間滞在した西安を後にした。西岳華山は西安の100キロほど東にそびえる名山、前漢の時代から五岳の一つとして国家祭祀の対象となり、神仙信仰の舞台にもなった聖地である。列車を降りると、まず華山西門という場所に向かった。そこで宿を探して荷物を預けるつもりだった。が、何をどう間違えたのかわからない。気づくと華山「東」門にいて、気づくと華山北峰に向かうロープウェイに乗っていて、気づくと山の上では雪がしんしんと降っていた。

なんでいまここにいるんだろう、という恨みを振り払いつつ、行くしかないと覚悟を決めて、一歩いっぽ階段を登った。幸いにも荷物は山の宿坊に預けることができたのだが、華山のマップもろとも預けてしまうという間抜け。ただ、いまさらそんなことはどうでもよかった。熱に浮かされて、白く染まった山道をひたすら進んだ。ロープウェイの駅近くにある北峰(1614m)から西峰(2082m)、南峰(2154m)、東峰(2096m)、中峰(2037m)の華山五峰を四時間ほどかけて回りきった。

その後、再びロープウェイに乗って下山し、停車していたバスに乗り込むと、華山西門の宿のあるエリアに連れて行かれた。バスを降りると、さっそく客引きの男が寄ってきて、「1泊60元でどうだ」と声をかけてきた。いいかげん、宿を探すのもめんどうだったので(※中国では外国人宿泊不可の宿が少なくない)、そのまま雑貨屋の裏手に備え付けられた怪しげな宿に案内された。

そこは天井の高い一階の部屋で、シャワーのお湯も出ず(※言えば出してくれたのかもしれない)、暖房設備はハロゲンヒーター一台のみのアドベンチャーなところだった。ただ、気づいたときにはもう手遅れで、どうでもいいやと思って毛布のなかにもぐり込んだ。やはり、ぐっすり眠ることはできず、余計に体調が悪くなって夜明けを迎えた。そのうえ、公にしがたい若干のトラブルもあったため、朝食もとらず、逃げるようにそこを立ち去った。

ぼくの粗末な下調べによれば、華山西門の外れにバスターミナルがあって、そこから山西省の運城という町に出られるはずだった。ところが、行ってみるとターミナルはすでに閉鎖されており、さっそく途方に暮れた。あたりを徘徊するおじさんたちに、どこで運城行きのバスに乗れるのか聞いてみると、「そこの道路を走っているバスをつかまえろ」といわれたが、目当てのバスはいっこうにやって来ない。

どうしようもないので、タクシーに乗って列車の駅に行ったものの、運城行きが来るのは五時間後だった。いったん切符を買って待つことにしたが、しびれを切らしてキャンセル。駅前に停まっていたバスに乗って、とにかく東に進もうと思ったところで、白タクのおやじが声をかけてきた。「運城に行きたい」というと、「高速道路でバスをつかまえられる」というではないか。うさん臭いなあと思いつつも、その言葉にすがりたい気持ちもあって、白タクに乗り込んだ。

すると、おやじがいろいろ話しかけてくる。「おまえは絶対にフォンリンドゥ公園を見たほうがいい」とか「運城行きのバスにもそこで乗れる」とか。ぼくはとっくにヤケを起こしていたので、フォンリンドゥが何なのかもわからなかったが、「わかった。とにかくそこに行ってくれ」といった。ずいぶん長い距離を走った。おやじは目的地に着く前の何もない道路上でいったん車を停めて、ぼくから120元もの運賃を抜け目なく回収した後、さらに車を走らせて黄河にかかる大きな橋の上で「降りろ。おれは陝西のタクシーだから山西には入れない」といった。やられた!?いや……、どうやらここがそのフォンリンドゥらしかった。

風陵渡(フォンリンドゥ)黄河大橋、陝西省と山西省を隔てる黄河の上にかかる巨大な橋。いまになって思えば、白タクおやじの言葉は本当だった。あの橋を歩いて渡れたことは、ぼくのかけがえのない思い出だし、運城行きのバスもたしかに走っていた。しかし、高速道路の上をかっ飛ばすバスを、どうやって止めればいいのか、ぼくにはわからなかった。ひとまず向こう側に着いたら、それから考えよう、何かあるかもしれない、そう思って橋を渡りきったが、同じ道路が延々とつづいているだけで絶望した。

何食わぬ顔で流れる黄河。

当時はスマホもなく、自分がどこにいるのかもわからなかった。熱に浮かされて、なんだかすべてが他人事のように思えてきた。感覚的に一時間ほど歩いたところで、「風陵渡」と書かれた道路標識が見えてきた。どうやらそれは町の名でもあったらしい。セーフ。なんとかなるかもしれない。そう思って、小さな田舎町のバスターミナルを探した。すると突然、前から芮城(ぜいじょう)行きのバスが走ってくるではないか。ぼくは大急ぎで手を上げてそのバスに飛び乗った。

運が向いてきた。そもそも運城に行きたかったのは、そこから芮城に行きたかったからなのだ。そのとき、バスの車窓から見えた山西の風景はひときわ壮観だった。芮城のバスターミナルに着いたのは、ちょうどお昼前。小さな店に入って、山西名物の刀削麺(とうしょうめん)を注文した。朝から何も食べていなかったので、さぞうまく感じるだろうと期待したが、案外そうでもなかった…

芮城には全真教三大祖庭の一つ永楽宮が鎮座している。中国で一番有名な仙人呂洞賓が降誕したとされる聖地(※一度移転しているのだけれど)。そして、そこには道教美術史上の最高傑作ともうたわれる壁画があって、ぼくはどうしてもそれが見たかった。バスターミナルの前からバイタクのおっちゃんの背中につかまって、五分ほど風を切るとすぐ目的地に着いた。

とても不思議な気分だった。「熱」に浮かされて、ゆらゆらと漂っているうちに、ここまで吹かれて来てしまった。まるで呂洞賓に導かれたかのように!そのとき、本当にそう思ったのだ。

さて、ぼくの熱と旅はもうしばらく続いたのだけれど、思い出話はこのあたりで切り上げたい。おそまつさまでした。