1981年から、私はオーストラリアのシドニー近郊に所在するUniversity of New South Walesの大学院生として理論経済学を学びました。在学中はキャンパス内の寮で生活し、地元のみならず世界各国からの学生と毎日多くの活動を行いました。
当時の西ドイツ出身の学生たちとも知り合うことができ、共にJ.S. バッハの合唱曲を演奏したり、親戚が東ドイツに住んでいる学生から厳しい政治情勢を聞いたものです。私は日本で第2外国語としてドイツ語を履修していたこともあり、すべての会話はドイツ語で行いました。そう簡単には上達しませんでしたが、議論の内容は深まっていきました。
1987年に再開した東京での生活では、ほとんど日本語だけを使う毎日となりました。今日のようにYouTube等でドイツ語圏のニュースやドラマを毎日視聴できるわけもなく、せっかく覚えたドイツ語を忘れないためにも、私はドイツ語の各種試験に合格するという目標を立てました。
1993年には、前年に開始された「ドイツ語技能検定試験」の2級に合格しました。まったく気づきませんでしたが、これが苦難の道の始まりでした。明星大学青梅校での勤務を始めたばかりで、「大学教員は自立した研究者である」という「誇り」から、同試験の1級に独力で挑むことにしたわけです。1994年以降、2次の面接試験まで進む年もあれば、1次の筆記とリスニング試験で不合格となる年もありました。
さすがに誰かに師事する必要を痛感し、都内の語学学校でドイツ語を母語とするインストラクターと共に、同試験1級の受験準備を、当然すべてドイツ語で開始したのは、1997年のことでした。もちろん「過去問」を検討することもありましたが、レッスンではドイツ語圏で発行された新聞や雑誌の記事を読んで議論しました。そして、2000年に1級の合格証書を受け取ることができました。もちろんレッスンを続行して、2001年には、ドイツ政府が設立した機関であるGoethe Institutの実施する「小ディプロマ」(大ディプロマに次ぐ)試験に”Gut”の成績で合格できました。
現在では、同校にて、文豪ゲーテの「イタリア紀行」を読んでいます。タイトル画は、1786年から87年にかけてローマ滞在中のゲーテが友人に描いてもらった肖像画です。私のドイツ語修行は続きますが、「誇り」を捨てることで苦難を喜びに変えることができました。作家の吉川英治の言葉のようですが、「我以外皆我師」という境地を少しだけ垣間見た気がします。