「絹の道」といえば、誰でもまず中国の「シルクロード」を思い浮かべるでしょう。それはかつて中国からローマに続く東西文化交流の重要な交易路でした。文字通り中国から絹製品が西方へ、そして西方の文化が中国へともたらされた道です。
実は多くの大学生が暮らす八王子市にも、「絹の道」と呼ばれる道があります。周知の通り、八王子はかつて「織物の町」でした。江戸時代を通して縞買い・呉服買い商人が繁栄し、甲州や上州から八王子八日市に集められた生糸が、商人の手によって横浜の外人商館へと運ばれました。まさに八王子市は「日本のシルクロード」の発祥地です。それを象徴するかのように、JR八王子駅北口のマルベリーブリッジ上には、「絹の舞」と名付けられたモニュメントが置かれています。それは大きな箱にプレゼント用のリボンをかけたようなシンボル塔です。私が担当した「野外活動」(青梅校科目)、そして「地図を読む」(日野校科目)の授業では多くの道を歩きましたが、この八王子「絹の道」も学生と共に歩いた思い出深い道の一つです。特に生糸取引で短期間に巨万の富をなしたという、「遣水商人」の暮らした遣水地区を中心に何度も歩いたことがなつかしいです。
ペリー来航以来、絹は日本の主な輸出品であり、養蚕の盛んであった多摩や秩父、そして、甲州地方から生糸が八王子に集められ、原町田経由で横浜港に運ばれました。1858年、日米修好条約が締結された翌年、つまり安政6年(1859年)に横浜が開港されると、港に運ばれる絹の量が増えました。「神奈川往還」と呼ばれる「絹の道」は、明治41年に八王子と東神奈川間に鉄道が開通されるまでは重要な交通路です。トロイヤ遺跡を発掘したシュリーマンや、イギリスの外交官アーネスト・サトウは横浜に来航した後、この「絹の道」を通って八王子や高尾山などへ観光に出かけたという記録も残されています。
1990年に開館した「絹の道資料館」は、生糸商人であった八木下要右衛門の屋敷跡に建設されました。明治17年に母屋が永泉寺本堂として移された後の跡地です。要右衛門は別名「石垣大尽」と呼ばれるだけあって、通りに面した石垣がとても印象的です。資料館では幕末から明治にかけて、生糸貿易の中継地として賑わった遣水商人の盛衰を紹介しています。衰退の原因は、生糸の輸出が国策となったことが挙げられます。また、農家の女性に依存していた糸取り作業の工程が大工場の機械化にとって代わられたこと、そして大手問屋を経由して出荷される流通の変化もあり、もはや地方商人では対抗できなくなっていました。その栄華はわずか50年でしたが、この間、大陸のシルクロードと同様に、生糸の輸出を契機として欧米の文化が日本にもたらされました。この道を通って日本各地に伝えられたのは自由思想であり、キリスト教であり、そしてマッチやランプなどの生活雑貨等でした。
八王子遣水地区一帯は岩盤の層があり、山の中腹に鎗状の尖った道具で突くと地下水が湧き出るそうです。人々はこの水を節抜きの竹で導いて瓶などに貯え、飲料水として利用してきました。これを筧(かけひ)と言い、さらにこの瓶から流れるようにしたものを「遣り水(やりみず)」と言うそうです。これが「遣水」という地名の由来だと言われています。また、横井戸からひく水が鑓のように流れ出ることに由来するとも言われています。和製版シルクロードである八王子遣水地区の「絹の道」は、東京環状道路(R16)が横浜街道として整備される以前、馬の背に生糸をつけて往来した道であり、R16が御殿峠を越えるように、絹の道は大塚山を越えていきます。かつて生糸商人の多くがこの遣水の地に豪邸を構え、外国商人を招待する異人館もあったそうです。今では風情ある落ち着いた雰囲気があり、休日を利用して散策するのに適した地域です。
学生と共に歴史ある場所を訪れたことは、私にとって貴重な思い出の一つです。学生の皆さんも身近な地域を歩くことにより、歴史の重みを感じる機会が得られることでしょう。