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フランスで親知らずを抜いた話(鋳物美佳)

  • 2023年02月01日

これは私がフランスに住んでいたときの話。

2015年の夏、ある日の夕方、突然、口の奥の歯茎が痛み出した。何をしても痛い。ズキズキ痛い。虫歯のように歯そのものが痛いのではなくて、歯茎が痛い。あまりにも痛くて、立っていても座っていても、とにかく痛い。頭の中は、痛い痛い痛い痛い…痛い以外のことが考えられない。さっそく飛び入りで歯医者に行った。薄々気づいていた通り、親知らずだった(ちなみにフランス語で親知らずはdent de sagesseという。直訳すると、「知恵の歯」。日本語でも「智歯」と言うが、つながりは知らない)。

かねがね噂には聞いていたけれども、こうも突然にやってくるものなのかと驚いた。またかねがね噂には聞いていた通り、非常に辛い思いをして抜いてもらわなければならないのだろうなと思った。実際、歯科医はそう言った。

予想外だったのは、フランスでは親知らずは4本同時抜歯が主流(?)ということ。いちいち1本ずつ、あるいは片側ずつ抜いて、そのたびに3、4日寝込むよりも、4本同時に抜いて4、5日寝込むほうが効率がいいだろう、という話だった。私の場合も、今回痛みが出た歯以外にもあと3本がご立派に成長していらしたので、4本すべて一度に抜歯することになった。たしかに効率はいいかもしれないが、怖さも倍増である。ちなみに4本同時抜歯なので全身麻酔。

いろいろあって、手術はストラスブールの大学病院で受けることになった。1ヶ月に1回しか外来手術をしないスーパードクターが執刀医になってくれた。1ヶ月に1回しかないので、手術は一番早くて2016年2月。さいわい、痛みには波があったので、鎮痛剤を片手に、爆弾を歯茎にかかえながら、2月を待った。半年以上待って4本の歯を抜く効率の良さは誰にとっての効率の話なのか、疑問に思う時もあったが、なるべく考えないようにした。

半年のあいだ、寝て目覚めたら親知らずが4本すべて消えてくれていたらいいのに!と何度も思ったけれども、そんな奇跡は起こらずに手術の日になった。日帰り入院。全身麻酔なので、麻酔医チームも3人体制で帯同してくれた。手術の1時間前ぐらいから点滴開始。いざ手術室に入ると病院スタッフがいっぱいで、誰が執刀医かわからなかった。

麻酔のために、口と鼻を覆う装置をつけられた。これで息を吸い続ければ意識が飛んで、全身麻酔が始まることになっていた。ところがしばらく経っても意識は明瞭なまま。このまま歯を抜かれたらどうしようと思っていると、麻酔医チームのリーダーが私に尋ねた。「世界で一番好きな場所はどこ?やっぱり日本?」「えっと、トゥールーズかな」「わあ南仏、いいねえ。トゥールーズのどういうところが好き?」「Jardin Royalっていう公園が小ぢんまりしてて好き」「よし、じゃあこれからトゥールーズのJardin Royalに行くよっ、大きく息を吸って!ほらほら南仏の光が見えてきたよ!」私はJardin Royalのことを考えながら一生懸命息を吸った。

トゥールーズのJardin Royal。初夏の木漏れ日が最高に気持ちいい。
とても静かな池がある。paisibleという言葉がぴったり。
Merle noir(クロウタドリ)。晩冬から初夏にかけて美しい歌声が響く。

次の瞬間は術後だった。Jardin Royalに行けたかどうかはわからないけれど、処置後の病室(というかほぼ廊下)で、ほかの患者さんたちと並んでストレッチャーに寝かされていた。そしてまた意識が消えて、目覚めて、寝て、起きて、を繰り返すうちに夕方になって、友人が迎えに来てくれた。ほかにいたはずの患者さんたちはみんなとっくに帰っていて、私だけが最後までぐーすか寝ていた。ストローを差した状態の紙パックのヨーグルト飲料が手の中にあった。いつ誰が持たせてくれたのか、まったく記憶になかった。

その後はたしかに4、5日寝込んだ。冷たい流動食しか食べられなかった。でもとにかく体が極端に疲れていたので、ほぼずっと寝ていたと思う。しばらくぶりに家の外に出たとき、体がとても軽くなった気がした。

かくして私の親知らずは4本ともフランスで抜いた。このあと、抜糸のことでもさらに苦しめられたけど、長くなるのでここには書かない。とにかく親知らずの抜き方ひとつをとっても、文化の違いというか、「よくあるやり方」の違いを大いに感じた。4本同時抜歯をして思うのは、たしかに、寝込む期間が一度で済むのはわりと楽かもしれないということ。とはいえそれも、熱さが喉元を過ぎ去ったから思うのかもしれない。