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ミュンヘンで白ソーセージを食べながら考えたこと(鶴田涼子)

  • 2023年05月01日
ドイツ・ミュンヘン、マリエン広場の市庁舎前にある魚の噴水。第二次世界大戦で破壊されるも、再建され、現在は待ち合わせや休憩スポットになっている。

ある夏の日、午前を図書館で過ごした私はミュンヘンの中心部にあるマリエン広場にて昼食をとることにしました。ドイツには「白ソーセージは正午の鐘を聞いてはならない」”Die Weißwurst darf das 12-Uhr-Läuten nicht hören.”という言葉があります。白ソーセージは仔牛肉にハーブを混ぜて作られ、保存が長くきかないため、以前は午前中に食べきらなければなりませんでした。今では冷蔵庫もあるので夕飯でも食べられますが、やはり新鮮な白ソーセージを求める人も多いようです。

マリエン広場の新市庁舎と聖母子像。写真中央は仕掛け時計。

図書館から足早に向かうと、正午前にマリエン広場に到着しました。仕掛け時計の門をくぐった先に目的のレストランがあります。ウェイターさんに声をかけるとスムーズに案内してくれました。淡く青い天井と装飾、整頓されたワインボトルが美しい地下レストランです。バイエルン州のミュンヘンということで、茹でソーセージの代表、白ソーセージとプレッツェルを注文することにしました。

少し離れた斜向かいのテーブルには、ご婦人が料理を待っている様子で、しばらくすると、そこへ白い器が運ばれてきました。中に入っているのは、白ソーセージであると思われます。ウェイターさんはすぐに立ち去ることはなく、ご婦人に食べ方を説明しているようでした。おそらく別の州から来ていたその方は、説明された通りにナイフとフォークを用いるも、それらがお皿に当たる音だけが響いてうまくいかないようです。というのも、白ソーセージは、まわりの皮(腸)を剥いて、腸詰めの中身のみを食べるのですが、それがなかなか難しいのです。ご婦人が白ソーセージと格闘しているところへテーブル担当のウェイターさんが助っ人にやってきました。何やら話しながら手伝ってもらうと、今度はコツを得たようで、その後ご婦人は落ち着きを取り戻して幸せそうに白ソーセージをほうばっていました。

そうこうするうちに、こちらのテーブルにも同じく白い器が運ばれてきました。白い器にのせられた銀の蓋が目の前で開けられると、一気に湯気がたち、湯気の奥に湯通しされたばかりの白ソーセージが見えてきます。その様子は幻想的でさえあります。ウェイターさんは、「皮を剥いてから、こちらのマスタードを付けてお召し上がりください」と説明をしてくれました。

温かいうちに食べようとカトラリーを手にとっていると、遠くから視線を感じました。視線の方向に目をやると、例のご婦人がこちらを気にかけ、じっと見守っています。滑りやすいソーセージを無事に器からお皿へ移すことができるだろうか、そのまま食べてしまわないだろうか、上手に皮を取ることはできるだろうかと、案じてくれていたのでしょう。ご婦人と目があったので、同じものを注文した者同士の不思議な同盟のような意識が芽生え、今から心していただきますよ、といったふうにナイフとフォークを見せて合図を送ります。

器からお皿へ、そうっとソーセージを取り出し、皮にナイフで一本の切れ目を入れます。それからソーセージを回しながら斜めに皮を剥いていきます。お皿の上は滑りやすいため容易ではなく、これは技術が必要だなと思いつつも、ナイフとフォークを自分なりに工夫してトライします。例のご婦人が今にも立ち上がってこちらのテーブルにサポートにやってきそうになった時、ソーセージを取り出すことに成功しました。そこへマスタードを付け、ナイフで一口大にカットして食べるとふわふわとした食感の白ソーセージを楽しむことができました。

気にかけてくれていたご婦人に、美味しくいただいていますよと、アイコンタクトを送ると、肩の荷が降りた様子でニコリと微笑んでくれました。席が離れていたため話すことはなかったのですが、あの場でほんのひとときをご一緒した方と、心が通じ合えた気がしてとても嬉しく感じました。

ちなみに、白ソーセージにつけるミュンヘンのマスタードは甘く、塩のついたプレッツェルとの相性は抜群です。

できたての白ソーセージ、2種のマスタード添え。左はハニーマスタード。
白ソーセージと相性のよいプレッツェル。つぶ塩がたくさんついている。

白ソーセージ「通」になると、フォークを使用せず、白ソーセージを吸って食べる人もいるようです。白ソーセージの端をカットし、直接ソーセージを吸い出しながら食べるのだそうです。いまのところ、この食べ方をする方と出会ったことはありませんが、こうした食べ方を表す動詞(zuzeln)も存在します。

ソーセージという単語そのものが日常の表現に登場することもあります。”Es ist mir Wurst.”という言い回しがあって、「(それは私にとって、ソーセージだ。)そんなことは平気さ。気にならないよ。」という意味で用いられるのですが、例えば、ソーセージを意味するWurstを変更して、”Es ist mir Weißwurst. “「それは私にとって白ソーセージだ。」にすると、意味が変わってくるだろうと想像してみました。この場合は、「時間が限られている」、「貴重である」、「困難な、容易ではない」、「他人事ではない」といった意味になるのかもしれない、などとあれこれ考えてみました。日本には「海老で鯛を釣る」という表現がありますが、ドイツでは「ソーセージを投げてハムを得る」といいます。環境とことばの関係って面白いですね。

苦戦しながらも白ソーセージをいただいた日の翌朝、滞在先の朝食部屋に行ってみると、そこには白い器に山盛りの白ソーセージが用意されていました。すぐ横にはミニプレッツェルと甘いマスタードもしっかりと置かれています。例のご婦人が見たら、きっとまた一緒に笑い合うことができたでしょう。特別なことではなく、何ということのない体験が、どういうわけか心に残っていて、過去の記憶を鮮明によみがえらせてくれることがあります。存在が心強く、あたたかい気持ちにしてくれたレストランのあの方に感謝を込めて、ミュンヘンでのひとこまをここに記します。